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藤波さんの!

無我 (むが)は仏教用語。我に対する否定を表し、「我が無い」と「我ではない」(非我)との両方の解釈がなされる。

スッタニパータなどの最初期の韻文経典に、無我はさかんに説かれる。それらによれば、「無我」は我執(がしゅう)の否定ないし超越を意味し、そのような無我を実践し続けてはじめて、清浄(しょうじょう)で平安な涅槃(ねはん、ニルヴァーナ、nirvaaNa)の理想に到達できるとする。

初期の散文経典では、我(自我)を「私のもの」、「私」、「私の自我」の3種に分かち、いっさいの具体的なもの、具体的なことのひとつひとつについて、「これは私のものではない」「これは私ではない」「これは私の自我ではない」と反復して説く。これらをまとめて、諸法無我という。

大乗仏教の無我観
このような「法有我」もしくは「自性」に対して、これを根底から否定していったのが大乗仏教とくに龍樹(りゅうじゅ)であり、自性に反対の無自性を鮮明にし、空(くう)であることを徹底した。その論究の根拠は、従来の縁起(えんぎ)説の根本的転換であり、それまでのいわば一方的に進行した関係性を、相互依存性へと広く深く展開させ、相互否定や矛盾をも含む、自在な互換と複雑で多元的な関係とを導入した。それはまた縁起関係にある各要素をどこまでも相対化し、実体的な「我」もしくは「自性」の成立する余地をことごとく奪い去った。このような「縁起―無自性―空」の理論は、存在や対象や機能などのいっさい、またことばそのものにも言及して、あらゆるとらわれから解放された無我説が完成した。龍樹以降の大乗仏教は、インド、チベット、中国、日本その他のいたるところで、すべてこの影響下にあり、空の思想によって完結した無我説をその中心に据えている。

釈尊が成道して悟った時、衆生の多くは人間世界のこの世が、無常であるのに常と見て、苦に満ちているのに楽と考え、人間本位の自我は無我であるのに我があると考え、不浄なものを浄らかだと見なしていた。これを四顛倒(してんどう=さかさまな見方)といい、釈尊はまずこれらを否定し、「空」を説いたわけである。

しかし、大乗仏教の教えが熟すと、大乗=すべての人々が救われる、という理念から、仏性(あるいは如来我=真我)の存在や如来の常住不変という理念が生まれていった。この過渡期に創作された経典が法華経などである。したがって法華経が創作された時点では、壮大な物語風に記されるのみで、なぜ無我と空が転換して「常住」となるかは詳しく説明しえなかった。そして大乗仏教がまたさらに熟され、その最終形として、大般涅槃経などが創作されると、すでに説かれた「無我説」や「空」との関連性をもって、法華経で薄くも示された「如来常住」や「悉有仏性」を更に高い視点から再度説明し、それを融和・止揚して論理的に説かれた。

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したがって大乗仏教では、釈尊は成道してまず世間の邪見である「我」を否定し「無我」を説いて、それが理解されるようになると段階的に説法し「如来我」を説いたと位置付けている。これを「常楽我浄」(涅槃の四徳・四波羅密)というようになった(なお、これらのことから仏教は「否定の否定」の教えであるともいわれる)。
(以上、ウィキペディアより引用)

すごい宗教的なものなんですね!

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2008年04月21日 10:44に投稿されたエントリーのページです。

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